ご祭神
菅原道真公 御神徳 学問・正直至誠・厄除・文化・書道・芸術芸能・詩歌・慈悲
前田利次公 富山繁栄の基を築く
前田正甫公 富山売薬の始祖
前田利保公 薬学殖産の始祖
ご由緒
建長年間に叡山延暦寺で修行を重ね、後に勧学職になった惠顗(当神社の旧神職畠山氏の祖)は、時の座主より秘蔵の天神像を与えられました。この像は菅原道真公の師である法性坊尊意(十三世天台座主)が描いた柘榴をかじり火炎となした絵図である。惠顗は、天神像を富山に持ち帰り、弘長3年(1263年)新川郡新庄に錦重山浄禅寺を建立し、天神像をお祀りしました。
江戸時代、富山藩初代藩主前田利次公は菅原道真公を祖とし氏神とし深く崇拝していました。富山城入城後、寛文5年(1665年)前田利次公は、ぼんやりとした天神像を壁上に夢見たことから、領民が所蔵する天神像の提出を命じました。天神町の浄禅寺が所蔵するの柘榴天神像が、前田利次公がみたものと同じであったことから、寺内に「天満宮」を創建、柘榴天神像をお祀りし祈願所としました。
その後、宝永5年(1708年)三代藩主前田利興公が柳町(現在地)へ遷座し本殿、拝殿を造営しました。天神信仰は富山藩保護のもと、庶民の間にも広まっていきました。
文化7年(1810年)九代藩主前田利幹公が富山藩祖前田利次公の霊を追尊し冥護の神としようと思い願い出たところ認められ、「国玉社」の社号を許され山王町神明社に合祀して祭典を厳修していました。
明治元年、明治維新新政府の神仏分離令により浄禅寺は梅沢町へ移りました。
明治6年(1873年)旧藩士族等が国玉社を当天満宮へ合祀したい旨を請願したところ、教部省の命により、国玉社の社号は「於保多神社」に改称となり、明治7年(1874年)於保多神社(国玉社)が山王町神明社より遷座し、天満宮の相殿となりました。同年天満宮の称は廃され、「於保多神社」に改称となりました。
明治9年、県社兼郷社となりました。社名の「於保多」は、初めて社が建てられた「太田保」(おおたのほ)を万葉仮名にしたものと言われています。
明治42年皇太子殿下(後の大正天皇)が北陸行幸の際に、前田正甫公・前田利保公在世の治績を賞され共に従二位を贈られました。之に依りて旧藩士市民は、正甫公・利保公の霊を奉斎し、長くその功績を顕彰するため明治44年富山藩二代藩主前田正甫公・同十代前田利保公の二柱を合祀しました。
「天神さま」「天満宮」といえば、菅原道真公をお祀りされている神社です。日本全国で約12,000社お祀りされています。菅原道真公は、人から神の御位に昇られ、「学問」「至誠」「厄除」「書道」「学芸」などの神様として御神徳を人々に信仰されています。
【元和3(1617年)生~延宝2(1674年)没】
加賀藩三代藩主前田利常の次男。母は第二代将軍徳川秀忠の娘。金沢生まれ。嘉永16年(1639年)、婦負郡と新川郡の一部及び加賀国能美郡内において10万石を分与され、富山藩を立藩しました。利次は藩法の制定や杉野原、月岡野の新開などを開始し、藩政の基礎づくりを行いました。万治3年(1660年)、加賀藩との間で領地交換を行い、富山城を正式な居城としたことにより、富山城と城下の本格的な整備を始めたのです。延法2年(1674年)、江戸城内で倒れ死去。
前田正甫(まえだまさとし)
【慶安2(1649年)生~宝永3(1706年)没】
延宝9年(1681年)、越後高田藩主松平光長が領地を召し上げられた際、高田城の請取りの大役を務めました。父利次の後を受け、藩政の充実に力を注ぎ、文武の振興を図りました。また、新田開発や産業の振興に努め、特に売薬業については、その発展の基礎を作りました。古銭収集家としても名が知られ、「化蝶類苑」などの著書もあります。
前田利保(まえだとしやす)
【寛政12(1800年)生~安政6(1859年)没】
藩政刷新のため、家臣や町人には上納金を課し、倹約令なども出しました。また産物方の設置や売薬業の振興、越中丸山焼の起業など、国産奨励を実施しています。天保6・7年の飢饉の際には、備荒倉などを設置して対応しました。一方、本草学に造詣が深く、著書もあり、特に「本草通串」はよく知られています。その他、能楽、和歌などにも通じた多彩な人物でした。
出典元:富山市郷土博物館:富山城ものがたり